2018-04-02 古鳥文康

中国の書の真髄を現代日本に伝えた代表的人物に景嘉(けいか)がいる。


景嘉は1914年、中国清帝国の名門の家に生まれた。第一次世界大戦が勃発した年である。


すでに清帝国は2年前(1912年)に滅亡しており、景嘉の一族も没落の憂き目に遭っていた。

しかし景嘉の父は清朝12代皇帝(ラストエンペラー)宣統帝溥儀(ふぎ)の家庭教師を務めたほどの人物であったから、収入に事欠く状況にあっても、景嘉は最高峰の学問を厳しく叩き込まれた。

景嘉二十歳のとき、日本が満州国を建国し、溥儀が満州国皇帝に即位すると、景嘉は北京を脱して一路満州国の首都長春に向かい、皇帝となった溥儀に拝謁する。

溥儀は聡明な景嘉を見て、将来の側近に育成すべく日本留学の綸旨を与え、景嘉は渡航して京都大学に学ぶこととなった。こうして中国の最高峰の学問と日本人の素養を兼ね備えた文人、景嘉が誕生していくのである。


1945年、日本が敗戦し、満州国が滅亡すると、景嘉はいったん台湾に亡命し、後に再度日本に亡命する。

景嘉は、中国人として最高峰の知識人と言われた。しかも旧満州帝国のトップ人脈である。その交友は、日本の歴代総理の師であった安岡正篤、佐藤慎一郎、吉川幸次郎など錚々たる学者たちに及んだ。

一般の男たちは景嘉の高い教養の前に近づくことさえできなかったのではないか。

ところが、その錚々たる学者たちにまじって、一人だけ、わずか19歳で景嘉の門下に入り、景嘉が他界するまで8年にわたって直接師事した青年がいる。

彼自身、この期間が生涯において最も充実し、影響を受けた日々であったと述べている。

その青年は、後に、樵舟(しょうしゅう)と号する。

樵舟とはきこりのことで、山から木を船に積み、里々に運ぶ人のことだ。

青年は景嘉から東山樵子(とうざんしょうし)の号を授かり、略して東樵(とうしょう)と名乗った。景嘉が他界した後、篆刻の鈴木般山に師事し、樵舟の号を与えられたのである。

書や篆刻の真の精神を後世に伝えるべき格好の称号ではないか。


おれと樵舟さんとの接点は、一昨年、友人を通じておれの会社の年賀状の文面を書いていただいたことからはじまる。

樵舟の書は景嘉によって磨かれた品格を備え、さらに鈴木般山や小林斗盦(とあん)などの大家から学び、修養して高められた風格がある。

書や絵画には「気」が込められることが重要だが、樵舟さん自身のたゆまず探求を怠らない人生の積み重ねが、その書に品格と風格のある「気」を込めているのだと思う。


右図の王士禎(おうしてい)は、樵舟さんをおれに紹介してくれた友人(女性)から見せてもらった。今日、午後のことだ。

彼女が、一昨年、大きな手術をしたとき、樵舟が 「人生、ときには立ち止まってゆっくり過ごす時が必要だ。」 という意味を込めて彼女に贈った書である。

しかも樵舟は彼女に一言も言わず、彼女は突然届いた名書のプレゼントに感動したという。

彼女はさらに、「立ち止まってゆっくり過ごす時だからこそ、見えるものがあるのだよ。」 という意味もあったに違いない、と理解している。

事実、彼女自身、そのすぐ後に人生の大きな転機を迎え、飛躍を遂げている。

おれは、彼女を通して、改めて樵舟の品格と風格を見た思いがした。


(樵舟作 「王士禎」)