月光荘おじさん


古鳥史康

与謝野晶子が関与した文化学院の最初の校舎(軽井沢ルヴァン美術館)


ときは明治の中ごろ、


兵蔵さんは北アルプスの雪解け水が日本海にそそぐ富山県に生まれた。


好奇心旺盛な少年は、山野の草花の素朴な色合いに心をときめかせ、虫や鳥たちと過ごしながら、時間を見つけては書籍に親しんでまだ見ぬ広い世界に思いを膨らませていた。

兵蔵さんは、貧しい暮らしの中で小学校を卒業するとすぐに農業を手伝うようになったが、18歳になったある日、決意して一人列車に飛び乗って、一路東京へと向かった。

東京では郵便配達から運転手までどんな仕事も一生懸命にやったが、数年後、さる有力者宅に書生として住み込みで働くことになった。

これが兵蔵さんの運命を変えることになる。

そのお宅の向かいの家が与謝野晶子の自宅だったのだ。

かねてより富山の田舎で与謝野晶子の歌集を愛読していた兵蔵さんの胸は高鳴った。

そしてある日、思い切って与謝野宅のドアベルを鳴らした。

兵蔵さん、21歳のときである。

はたして与謝野晶子、鉄幹の夫妻は兵蔵さんを快く迎え入れてくれた。

そしてそのうち自宅に集まる当代一流の文化人、芸術家たちを紹介してくれるようになった。

北原白秋、石川啄木、高村光太郎、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬、岡田三郎助、芥川龍之介、島崎藤村、藤田嗣治などである。

兵蔵さんは目の前にいる大人たちこそがこれからの日本を引っ張っていく人たちなのだと感じ、目を見開いて、一言一句を聞き逃すまいと食い入るように知識を吸収していった。

日本を代表する大人たちはそんな兵蔵さんを面白がり、可愛がるようになっていったのだった。

やがて兵蔵さんの心の中にはそれまで全く知らなかった芸術の世界が広がり、芸術家たちの 「ものを見る目」 「表現を追い求める姿勢」 などに心を奪われていく。

そして、何とかこの魅力的な人たちのために自分がお役に立てることはないか、と真剣に考えるようになった。

そして天職を得るときが来る。

当時、画家たちは、国内に上質の絵の具がなかったので、ヨーロッパからの輸入に頼っていた。しかし船便は2か月以上かかるうえ、遠い異国の事情でなかなか思い通りの画材も手に入らなかった。

与謝野家に集まる芸術家たちは兵蔵さんに 「色彩に関する仕事をしてみたらどうか?」 と助言する。

兵蔵さんの心に一筋の光が射した。

兵蔵さんは固い決心をする。

芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方に少しでもお役に立つことに、自分の一生をかけよう。

兵蔵さんはヨーロッパから絵の具の輸入を始めた。荷が港に着くと、雨風が酷かろうと、台風であろうと、絵の具を心待ちにしている絵描きのアトリエまで自転車を漕いで届けて回った。

届けに行った先で、絵描きたちから画材についての不満や改善点の希望を聞くと、次に訪れるときには試作品を持っていって試してもらった。

この繰り返しをひたすら続けた。

こうして兵蔵さんは絵描きたちから絶大な信頼を得ていったのだった。

そして1917年、兵蔵さん23歳のとき、新宿にはじめて店を出したのである。

最初に与謝野家のドアベルを鳴らしてから2年後のことであった。

与謝野晶子が開店のはなむけに一首詠んだ。


大空の 月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ

芸術家の作品が太陽だとすれば、絵の具屋はそれを支える月の光。

ここに 「月光荘」 が誕生したのである。

以来、兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが、自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。

(つづく)



猪熊弦一郎

パリのルイヴィトン





























































































































兵蔵さんの人生は、ただただ一途に、お世話になった芸術家たちへのご恩報じの人生である。

これが本当の仕事のあり方なのだと思う。

しかしわかっていてもなかなか実行できない。実行してもなかなか思いを持続できない。

しかしこうやって実行している人生を目の当たりにさせてもらうと、よし!と思える。

ご恩報じの人生、仕事は、宝石などよりもはるかに輝いている。

感謝があって、喜びがある。



(前回の続きから)

こうして23歳で新宿に画材屋 「月光荘」 を開店した兵蔵さんは、この恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗った。

芸術というこの大きなものに心血を注いでいる先生方に少しでもお役に立ちたい。そのために自分の一生をかけよう、と決心してはじめた画材屋である。

兵蔵さんは店の主人となってからも、自ら絵描きたちへの配達を行い、ご機嫌伺いを欠かすことはなかった。

画家の猪熊弦一郎のアトリエにお伺いしたときのこと。

アトリエいっぱいに広げられた新聞紙の上に、汚れた筆洗い油の入った器と洗ったばかりの筆が並べられていた。

兵蔵さんが 「先生、こんな汚れた油ではきれいにならんでしょ?」 と聞くと、「油がもったいないからな」 という返事。


器の底にこびりついた絵の具をはがすのに半日かかるし、使いかけの筆をそばに置くと互いにくっついてしまう。

兵蔵さんは店に帰っていろいろ試してみると、筆洗い器を二重底にすれば絵の具のカスだけが下に落ちて油はあまり汚れないことに気づいた。

それから1年、あれこれ工夫していると、ある日、見ていた映画の手術のシーンで湯気の立っているラセン張りの筒にメスを次々に差し込んでいく場面に出会う。

そうだ! これを筆に置き換えればいい!

さっそくブリキ屋に見本を注文したが、しかしなかなかうまくいかない。

さらに3年にわたって試作品を作らせ続けたが、ついにブリキ屋から 「勘弁してくれ。もう金の問題じゃない。おれの脳みそがおかしくなりそうだ。」 と断られてしまう。

その後、画箱職人と共に努力を重ね、

ついに満足のいくものを完成させたのは、じつに5年目のことであった。

さっそくこの筆洗い器を持って猪熊先生のところに飛んでいくと、

一言、「こんなのが欲しかった! 絵になる!」

この一言で兵蔵さんの苦労は吹き飛んだ。

しかものちに特許が下りてこの筆洗い器は特許商品となる。

この筆洗い器を洋画家の国沢和衛がパリにいた画伯・藤田嗣治のところに持っていくと、藤田は 「見ているだけでも楽しい。月光荘のおやじは今もいろいろ考え続けているのかい?」 と言って大称賛してくれた。

さらに藤田嗣治から同じくパリにいた洋画家関口俊吾に伝わり、関口俊吾から世界の画家パブロ・ピカソに伝わった。

ピカソは 「こんな便利なものがあって日本の画家はいいな!」 と感嘆したのである。

芸術家たちのお役に立ちたい。こうした兵蔵さんの努力は日々たゆむことなく、兵蔵さんは意図せずに、結果的に30件を超える特許商品をものにすることになる。

・・・・・・・・・

46億年前にできた地球の歴史の中で、宝石は自然が何十億年もかかって地熱で育てて出来上がった。

むかしの画家は宝石を粉にして絵の具を作ったので、「絵の具は宝石」 と言われたのだった。


地上で最初に絵の具が発明されたのはフランスで、発火法という技法だった。自然の宝石と同一成分を鉱物から吸収し、それを炉に入れて高熱をかけることから始まる。

たくさんの色の絵の具ができるまでは大変な努力であった。親子三代もかかってやっとできた色もある。

フランスでは色の発明者には最高の勲章と栄誉と賞金と名誉の墓地まで与えられた。


こうしてほとんどの色は19世紀末にフランスで出そろった。

世界はフランスから絵の具を輸入していたのである。

それが1939年、第二次世界大戦の勃発によってフランスはドイツに占領され、全世界で絵の具の輸入が途絶えた。

日本では文部省が 「一時しのぎのための代用品を作れ」 と省令を発し、業界全体が代用品に走る時代となった。

しかし絵は画家のいのちである。その絵の具をしばらく代用品で応急措置して、後に本物の絵の具で描き直すというのでは絵にいのちがこもらない。画家のいのちがむなしく死んでいってしまう。


兵蔵さんの月光荘はガンとして 「代用品は作らない」 と宣言し、

大恩ある画家たちのために、フランスが何代にもわたって完成させてきた絵の具を、何が何でも短期間のうちに国産品として完成させなければならない、と決意する。

それからは死に物狂いであった。大恩ある先生たちが困っているのだ。

明けても暮れても、空襲の警戒警報中であっても炉の火から離れることなく、限りない挫折感と空漠感を何度も身に染みて味わいながら取り組み続けた。

そして愚直の1年。


しかしわずか1年である。

1940年、瑠璃色の青、不滅のコバルトブルーが完成したのだ。

純国産の油絵の具第1号である。それは日本の芸術界にとって青天の霹靂であった。

猪熊弦一郎、脇田和ら日本を代表する画家たちがみんな月光荘に参集し、惜しみなく歓声を挙げた。

翌朝、東工大の若き研究者であった稲村耕男 (やすおと読む。後に東京工大教授) が月光荘を訪ねてきた。兵蔵さんが作った油絵の具を見ると、その場で月光荘研究部に入った。

以来、稲村は大学の帰りに毎日月光荘に通い、兵蔵さんと共に色を作る研究に打ち込んでいく。


そして、やがて月光荘から、

セルリアンブルー、

コバルトバイオレット、

カドミウムイエロー、

バーミリオン (硫化水銀から成る赤色)、

ビリディアン (クロミウムから成る緑色)、

オキサイドグリーン、

コバルトグリーン

と、新しい色が次々に誕生していった。

文化勲章の小糸源太郎が 「買い置きしていたコバルトグリーンを使い果たしてしまって、いま取り組んでいる絵が完成できない。何とかしてくれ!」 と悲鳴を上げたのはじつに月光荘のコバルトグリーンが製品になる前日であった。

翌日の夕方、兵蔵さんがコバルトグリーン半ダースを持って走って届けると、小糸源太郎は感動でしばし無言。そしてほどなく絵は完成したのであった。

さらに後に、月光荘は、

チタンホワイト (チタン油絵の具世界第1号)、

コバルトバイオレットピンク (世界油絵の具コンクール第1位受賞)

の開発に成功する。

フランスのルモンド誌は 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛した。

ついに兵蔵さんの月光荘は、世界で唯一、芸術の国フランスと肩を並べたのである。

(つづく)




詩人 深尾須磨子

深尾須磨子と荻野綾子




























































































水森亜土

(前回の続きから)

大正時代の1917年、

兵蔵さんは23歳で著名な芸術家たちの支援を受けて新宿に画材店 「月光荘」 を開いた。

兵蔵さんはこの恩を忘れぬようにと、まだ20代であったが自らを 「月光荘のおやじ」 「月光荘のおじさん」 と名乗る。

大恩ある芸術家たちのお役に立ちたい。

兵蔵さんは、芸術家たちの要望に応えて画材に工夫を重ね、そうしているうちに、期せずして30件を超える特許商品を開発することになり、

フランス以外では不可能と思われていた絵の具も、はじめて国産の絵の具の開発に成功した。

新宿の月光荘画材店はにぎやかになっていった。

やがてパリの街角のようなお洒落なサロンと喫茶店が併設され、中川一政、小磯良平、猪熊弦一郎、中西利雄、脇田和などの当代一流の芸術家たちの社交場となった。

また月光荘ギャラリーも開設され、岡田三郎助が審査委員長となって絵画のコンクールが催された。

さらに画家の中西利雄の発案でクラブ室ができて、グランドピアノが設置され、あらゆる楽器もそろった。

1930年代後半になると、兵蔵さんの月光荘画材店は、新宿大通りの一等地に100坪もの敷地を有し、

詩人の深尾須磨子の発案でパリ風の中庭のあるサロンや喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを併設し、

雑誌 「洋画新報」 「近代風景」 を発行するまでになった。

お洒落な街角の代表として、映画のロケ地に毎年20~30回も使われるようになっていた。

それでも大恩ある芸術家たちへのご恩報じで始めた仕事である。

店が大きくなっても兵蔵さんは欠かすことなく自ら芸術家たちに商品配達を行い、何か困っていることはないかとご機嫌伺いに通った。

若い芸術家の面倒を見ることも忘れなかった。

若い画家には奨学金を出し、月光荘のサロンや喫茶店では恋も芽生え、結婚式も挙げられたのである。

しかし1945年、日本は太平洋戦争に敗戦する。

新宿の月光荘は大空襲で灰燼に帰し、兵蔵さんは裸一貫となる。

兵蔵さん51歳である。

しかし、兵蔵さんの心意気は変わらない。。

兵蔵さんはまもなく銀座に引っ越し、わずか3坪の小さな店で再出発する。

新宿から銀座に遷ることを薦めたのは画家の猪熊弦一郎ら昵懇の芸術家たちであった。

猪熊弦一郎は 「オヤジ、やるならやっぱり銀座がいい。新宿の店が焼けてよかったな。」 と言って兵蔵さんを励ました。

兵蔵さんの月光荘は戦前から戦時中にも多くの国産の 「色」 の開発に成功してきたが、それは戦後銀座に遷ってからも続けられた。

前回記載の、

チタンホワイト (チタン油絵の具世界第1号)、

コバルトバイオレットピンク (世界油絵の具コンクール第1位受賞)

の開発に成功したのは銀座に遷ってからである。

フランスのルモンド誌が 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛したのもこのころだ。

こうしてわずか3坪だった銀座の月光荘画材店も少しづつ土地を買い増し、やがて喫茶室、ギャラリー、アトリエ、クラブが順次併設されていく。

まだ女学生だった芸術家の卵、水野スウ、立原えりか、江面幸子、小薗江恵子、水森亜土などが月光荘に通うようになったのもこのころのことだ。


江面幸子が初めて月光荘に来たとき、彼女のスケッチブックが風でめくれたのを見て、兵蔵さんが一言 「うまいな」 と言った。

江面 「ありがとう、おじさん。わたしおじさんだけにほめられたの。こんど東京に出てきたらまた来ます。」

兵蔵 「ああ、きっと寄りなさい。それから、詩も絵も続けるんだ。きっといいものができるよ。」

江面幸子は水戸から東京へ出てきていろいろなことを体験したが、お金が無くなると兵蔵さんの月光荘でキャンパスを貼ったり絵の具を売ったりのアルバイトをさせてもらった。

小薗江圭子は面白いハンドバックを持って月光荘に来た。

ハンドバックを開けると、おばけやネコのぬいぐるみがひょっこり顔を出す。

兵蔵 「どれ、見せてごらん。面白いじゃないか。」

店にはちょうど世界的画家となっていた猪熊弦一郎が来ていて、

猪熊 「いいね。」

小薗江圭子は感動した。人形を作ることに勇気が湧いた。

一緒にいた猪熊弦一郎の奥さんもとてもほめてくれて、彼女の衿を直してくれた。

次の日も月光荘でネコは彼女のハンドバッグの中にいた。月光荘のお客に立派な紳士がいて、そのネコを見て、

紳士 「そのネコを譲ってください。値段はあなたが決めてくれればいい。その気になったら月光荘に預けておいてください。」

3日後、兵蔵さんを通して小薗江さんのネコは紳士の手に渡り、はじめてお礼の手紙と謝礼金をもらった彼女は頬を輝かせた。

初めて自分の手で作った人形が人の目に留まって、売れたのだ。


彼女が頬を紅潮させながら街へ出ると、彼女の息が止まった。

銀座のど真ん中の有名なショーウィンドウにそのネコがいたのだ。通る人たちが足を止めるほどにかわいらしく。

小薗江はその店に駆け込んで、 「あのネコは・・・」 と聞くと、女店員が 「社長が持ってこられたのです。」

彼女は幸運に息を弾ませて月光荘に駆け戻った。

「よかったな、ドド(小薗江さんの愛称)。これからも一生懸命やるんだよ。自分がやりたいと思ったことはどこまでもやり遂げるのだ。勇気を持って、進んでいかなければいけない。」

こうしてぬいぐるみ作家、小薗江圭子が誕生した。

水野スウが初めて月光荘に立ち寄ったのも彼女が女学生の頃であった。

月光荘には特許商品などオリジナル商品が多数あるから、ふだん見かけない商品も多い。

ちょっと変わった便せんや封筒、はがきが並んでいるのが目に飛び込んできた。

「あれ? おじちゃん、なんでこんなもの売っているの?」

「店に来る絵描きさんの恋人やら、絵は描かんでも手紙は書くじゃろが。」


よく見ると、スケッチブックや便箋、そのどれにもラッパのようなマークがついている。

「おじちゃん、これは?」

「友だちを呼ぶホルンさ。その音色で人が集まるんだよ。」

それから水野スウは銀座に出るたびに月光荘に寄り道するようになる。

「おじちゃーん、元気ィ?」

「おや、おまいさん、また来てくれたの?」

「そうよ、恋してるとラブレターの紙がすぐなくなるもん。」

「そりゃそうだ。おまいも年ごろだからねえ―。」

このころ、中学2年から3年にかけて、水野スウは母と兄を亡くして精神的に危ない時期だった。

内側に溜まっていくぐちゃぐちゃな気持ちを紙の上に吐き出すしかなかった。誰からも変わってるねと言われた。

そういう彼女に、兵蔵さんは、いつも、何度でも、お前はお前でいていいんだよというメッセージを送ったのだった。


ときに兵蔵さん70歳くらいのころ、

水野スウが初めて自費出版で詩集を出したとき、兵蔵さんは目を通すなり、

「今度来るときたくさん持っといで。みんなに可愛がってもらおうよ。」

自分で見てもつたなく幼い詩集であったが、兵蔵さんの後押しで残らず売れてしまった。彼女はこのときの嬉しさを生涯忘れていない。

その後、水野スウは結婚して金沢に移住するが、兵蔵さんとのつきあいは文通となってつづき、やがて彼女は手紙のやり取りでカタログの月光荘新聞の編集を手伝うようになる。

彼女は、あるとき、 「そばにいて」 という資生堂のコピーが気に入って、兵蔵さんに手紙に書いた。

「おじちゃん、そばにいて・・・なんて言われたらドキドキしますか?」

「そばにいて・・・素晴らしい、信州信濃のそばよりも。ほとほと感心しましたよ。ドキドキ。」

こうして彼女は、人に対する感謝、ご恩報じ、仕事に対する真剣さ、人生への謙虚さを学んでいく。

兵蔵さんはやがて80代となったが、お世話になった芸術家たちへのご恩報じの精神は不変であった。

自分を育ててくれた与謝野晶子はじめとする芸術家たちへの感謝を忘れず、芸術家たちが使いやすいようにと画材の創意工夫をたゆまず、いのちを燃やして仕事に取り組み続ける。

これは兵蔵さんが86~87歳のころに水野スウに送った手紙である。

「スウさんや、

ほんとに去年はよく働きました。

三十年来の製品の改良に全力を注ぎました。

考えるのをやめようと思いながら、ついついまた考え始めるのも病気かね。

でも 『人のために』 つくしましたよ。

人につくせば喜ばれる、人のためは自分のためです。

それがいろんなかたちでもどってくるのです。

鮭が故郷の川に戻ってくるのと同じです。

今年もはじけるほどはたらきます。好きだからこそ働くのです。

私はいつ死んでも悔いはない。

だけどもう十年必ず生き延びます。希望があるからです。

与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、

つきぬ永遠の基を作るのです。

畑をたがやす鍬はピカピカしています。」

そして兵蔵さんの 「いのちを燃やす手紙」 が届く。

「耳がとおくなってくると、

相手の目の色に気がつくようになってきました。

目がかすんでも、

手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってきます。

男と女であったら、

ローソクか稲妻かすぐわかりますよね。」

ひとつの道具の具合が悪くなったら、代わりの道具を活かせばいい。

そいつの機能をフル回転させてやろうじゃないの。

もしそれがだめになっても、

手を握り合ったときのぬくもりで、

そしてしまいにはハートで人はいっぱい感じることができる。

もしかしたら見えないもの、形のないものが歳とともにはっきり見えるかもしれない。

生きることに誠実を尽くす。

それは自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることなんだよ、

と、兵蔵さんの声が聞こえてきそうだ。

「わたしの炎、おじちゃんのハートの炎にはとうてい及ぶべくもないけれど、

でも私自身がおじちゃんにとって、ときにはローソクのぬくもり、

ときにはびりびりっとおじちゃんをしびれさせる稲妻にならなければならない。

そのためにも毎日いのちを燃やしてゆくんだ。」

水野スウは兵蔵さんのいのちを燃やす手紙を抱いて涙が止まらなかった。

(つづく)


バブルに踊らされる日本
























































































































































































































































自分が96歳まで生かされるかどうかはわからないが、

仮に生かされたとして、兵蔵さんのようにすべて失ったとしたら、

耳も遠くなり、目もかすんだ身体で、最後のご恩報じのために人生最後の全エネルギーを注ぎこんで、自分が死んだ後の30年間の復興のレールを敷けるだろうか。


いや、できるかどうかではなく、兵蔵さんから学んだように、人生最後の場面で大惨事に見舞われようと、あるいは無事平穏であろうと、どんな状況であっても、生きざまは兵蔵さんと同じ覚悟でなければならない。


(前回の続きから)


その事件が起こったのは、じつに兵蔵さんが95歳のときである。

兵蔵さんが大恩ある芸術家たちのために開店した月光荘は、戦前、新宿の一等地に100坪もの敷地を有するまでに大きくなったが、太平洋戦争の大空襲によって灰燼に帰し、兵蔵さんは再び裸一貫となった。

しかし兵蔵さんは、戦後、銀座に移り、わずか3坪の小さな店で月光荘を再興する。

兵蔵さんの月光荘は、画材や絵の具の開発を続け、少しづつ土地を買い増しして、芸術家たちのために再びサロン、喫茶店、ギャラリー、アトリエ、クラブを順次併設していった。

ご恩報じは現役の芸術家たちに対してだけではなかった。芸術家の卵の若者たちの面倒も見、彼ら彼女らが世に出るのを助けつづけた。

その月光荘が、90代となった兵蔵さんのあずかり知らないところで、妖女、中村曜子に食い物にされる。

中村曜子によって月光荘は膨大な借金を負い、国際スキャンダルとなる事件を引き起こし、ついに倒産するのである。

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その種は、兵蔵さんが70代半ばのとき、月光荘の会社の経営を息子の百蔵さんに譲ったときに生じた。

所帯の大きくなった月光荘の経営は息子百蔵さんに任せ、兵蔵さん自身は月光荘ビルの一角の画材店で芸術家たちのお世話をし、画材・絵の具の開発をつづけていたのである。

百蔵さんは兵蔵さんが40歳を過ぎて生まれたので、若い青年社長のデビューであった。

中村曜子は、軍人の家に生まれ、女学校時代に陸軍士官学校の教官と結婚するが、夫が戦死した場合を見越して、まもなく生まれた娘を自分の妹として入籍したほど計算が先立つ女だった。

その後、彼女は夫と離婚し、資産家の安宅家の二代目と昵懇になり、その庇護を受けて印刷会社を経営し、学生向けアパートを所有し、娘を慶應義塾幼稚舎に通わせた。ちなみに安宅家は後に倒産する大手商社安宅産業のオーナー家である。

彼女は安宅家の二代目に対しても世間に対しても 「夫婦別れみたいなことでは具合が悪い」 と考え、周りに 「娘の父は戦死した」 と話していた。

ウィキペディアなどによると、この後に彼女の背後には錚々たる闇の大物、森下安道や小谷光浩らが関与することが指摘されている。

彼ら闇の大物は、あらゆる手段を使って資産家や利用価値のある人間を罠にはめ、食い物にするのはお手の物だ。

おれの恩師だったK会長(田中角栄から森喜朗までの歴代総理のフィクサー、故人)や、いまおれが師事しているT先生(現在、自民党系の最強のフィクサーと目される、78歳)たちが、ときに対立し、ときに利用し、ときに戦ってきた闇の実力者たちである。

中村曜子はこののち月光荘を食い潰していくが、彼女自身もまた彼ら闇の実力者たちに利用されて食い物にされていただろうことは容易に察しがつく。

そんな妖女、中村曜子の娘が通っていた慶應義塾幼稚舎~中等部に、兵蔵さんの息子の百蔵さんも通っていたのである。

そのころ中村曜子は20代から30代。彼女が娘の友だちの百蔵さんに意図して近づいたのであれば、少年の百蔵さんが彼女に憧れるように仕向けるのは簡単なことであっただろう。

やがて百蔵さんが若くして月光荘の二代目社長に就任すると、中村曜子も月光荘の経営に参画するようになる。ときに中村曜子41歳である。

なにしろ月光荘は与謝野晶子によって命名された歴史のある画材店であり、

画材に関して30件以上の特許商品を所有し、フランス以外では不可能であった絵の具の開発に世界で初めて成功し、フランスのルモンド誌から 「フランス以外の国で生まれた奇跡」 と大称賛されていた。

そして、なによりも

梅原龍三郎、

有島生馬、

岡田三郎助、

藤田嗣治、

関口俊吾、

小糸源太郎、

猪熊弦一郎、

脇田和

など日本画壇を代表する画家たちが、故人も現役もみな月光荘と親しい付き合いをしていたのである。

中村曜子やその背後の闇人脈にとって月光荘は利用価値のあるご馳走であっただろう。

中村曜子は、月光荘の経営に参加するとすぐに、銀座月光荘ビル内にあった芸術家たちのための月光荘サロンを改装し、会員制アートクラブ 「サロン・ド・クレール」 を開設して、その女主人となる。

そして月光荘の魅力と信用と人脈をフル活用して、有力な財界人や政治家をどんどん巻き込んでいく。

それは、

平野赳 (日魯漁業 社長 )、

松山茂助 (サッポロビール 社長)、

小山五郎 (三井銀行 社長)、

北裏喜一郎 (野村證券 社長)、

永野重雄 (新日本製鐵 会長)、

武見太郎 (日本医師会 会長)、

谷村裕 (東京証券取引所 理事長)、

駒井健一郎 (日立製作所 会長)、

渡辺省吾 (日興証券 会長)、

斎藤英四郎 (日本経団連 会長)、

岡田茂 (三越 社長)、

金鍾泌 (大韓民国 国務総理)、

中曽根康弘 (内閣総理大臣)、

円城寺次郎 (日本経済新聞社 会長)

など、錚々たるメンバーであった。兵蔵さんが人生をかけて築いてきた月光荘にはそれだけの信用と魅力とパワーがあったのである。

月光荘の信用と魅力、日本画壇を代表する著名な画家たちの名前、そして日本の政財界を代表する政治家や財界人たちの名前がそろえば、金儲けのネタはいくらでも出てくる。地方の小金持ちなどに絵画などを売りつけるなどは簡単だ。

こうして中村曜子が主導する月光荘ではどんどん大金が動くようになり、同時に中村曜子とその背後の闇人脈にどんどん食い潰されるようになっていった。

この時期、兵蔵さんは70代後半から80代であったが、銀座月光荘ビルの一角の画材店で、日々、画材や絵の具の改良を重ねながら若い芸術家の卵たちの育成に心を砕いていた。

その同じ銀座月光荘ビルの別のフロアのサロンで、中村曜子は百蔵さんと著名人たちを利用しながら大金を動かしていたのだ。

1977年、中村曜子は百蔵さんをそそのかして月光荘ビルの近所のビルに別の事務所を開設する。ときに兵蔵さんは84歳。

こうして兵蔵さんの目がまったく届かなくなると、いつの間にか、社長であった百蔵さんと副社長であった中村曜子の立場が逆転し、中村曜子が社長、百蔵さんが副社長となっていた。

いくら月光荘の名前や人脈を利用して大金を手に入れても、食い潰される金のほうが大きければすぐに枯渇して潰れてしまう。さらに荒稼ぎをしなければ追いつかない。

こうして、中村曜子はレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作をめぐって20億円の詐欺事件を引き起こし、1988年、イタリアのミラノ検察庁によって起訴され、国際的スキャンダルとなる。

これが月光荘事件と呼ばれるものだが、しかしそれは氷山の一角にすぎないだろう。おそらく荒稼ぎした金は数百億円以上あったと思われ、その多くが闇に消えたはずだ。

なにしろその翌年、月光荘が倒産すると、月光荘に残った負債だけで188億円あった。長年の商売なので負債の何倍~何十倍の商取引があったはずだからだ。

この月光荘事件が勃発したとき、兵蔵さんはじつに95歳であった。

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仕事に失敗したり事件に巻き込まれると、世間は冷たい。

汚点だという。

しかし詐欺事件に巻き込まれたことは汚点ではない。

これを汚点だと罵るほうがバカ者なのだ。

とくに当時、バブルの経験で日本人全体が金持ちになったと勘違いし、何か自分たちがセレブな人間になったと勘違いする風潮があったから、失敗した人や事件を起こした人には冷たい世相があったと思う。いや、そういう世相はいまもある。

しかしそういう冷たい人は世界の恐さがわかってないのだ。

闇の実力者から狙われれば、どんなに法律に詳しい人であっても、商売に精通している人であっても、刑事や官僚であっても、ほとんどの人が赤子の手をひねるように騙され、罠にはめられ、巻き込まれてしまう。力量が桁違いなのだ。

人の失敗を汚点だと罵るようなバカ者などイチコロでやられてしまう。

兵蔵さんは被害者である。

しかもその後の姿勢が立派なのだ。

そう、この一連の出来事は、汚点ではなく、立派な美点なのだ。

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兵蔵さんは86~87歳のころに水野スウに送った手紙に、

「私はいつ死んでも悔いはないが、あと十年必ず生き延びて、与謝野晶子先生への感謝と、画家たちへの感謝の、つきぬ永遠の基を作る」

と書いている。

また同じころの手紙に、

「耳がとおくなってくると、相手の目の色に気がつくようになってきた。目がかすんでも、手のにぎり具合と温かさで心にしみる度合いが違ってくるようになってきました」

と、書いている。

すなわち、

あと10年で、大恩ある与謝野晶子先生や画家の先生たちへの感謝のご恩報じをゆるぎないものにする。その永遠の基となる月光荘を作るのだ。

そのために自分の身体の道具をすべて活かし、すべて使い切る。 いのちを燃やし切る。

生きることに誠実を尽くすとは、自分の全身を、自分のいのちを燃やし切ることである。

いま、95歳。

もうすぐその10年目が来ようとしている。

すでに兵蔵さんの耳は遠くなり、目はかすんでいたかもしれない。

しかしそれらが使えなければ手のぬくもりで感じ取り、

最後はハートで感じ取って、

ゆるぎない月光荘にしなければならない。

そんな兵蔵さんと月光荘に中村曜子による大惨事が襲いかかったのである。

一連の事件に遅ればせながら気づいた95歳の兵蔵さんに、絶望している時間はない。残されたいのちの全身全霊をかけて、最後のご恩報じに挑まなければならない。

もはや財産も名誉もすべてを失うのは避けられない。

いや、財産も名誉もすべてなくなってもいい。

しかし 「月光荘」 の名は、大恩ある与謝野晶子先生から頂いた看板である。

すべてを失っても 「月光荘」 の名前だけは守らなければならない。

月光荘の名前のついた画材店を潰してはならない。

まず、兵蔵さんは、名門の家に嫁に行っていた娘のななせさん(百蔵さんの妹)を立てて裁判に打って出る。

月光荘が倒産するのはやむを得ないが、その画材部門は一連の事件と全く関わりがないことを訴えたのだ。

そして兵蔵さんとななせさんは、巨大な負債を抱えて倒産していく 「月光荘」 から、画材部門を分離することに成功し、 「月光荘画材店」 の名前を守り切る。

次に、その月光荘画材店を再興しなければならない。

月光荘画材店の名称はななせさんが継いだが、しかし、この名称のほかは何もないのである。

少しづつ土地を買って建てた銀座のビルも店も自宅もお金も信用もすべて失った。

しかも名前だけの月光荘画材店の、新たな代表取締役社長となったななせさんは3人の子供を抱え、子育てに奮闘する一主婦であった。

ななせさんは兵蔵さんが50歳のときの娘だから、ときに45歳。もちろん経営の経験など全くない。

1945年に太平洋戦争に敗戦したときも、兵蔵さんは裸一貫となったが、そのときは日本中が焼け野原で多くの日本人が裸一貫であった。

資産は全部失っても、兵蔵さんが築いた信用もお客様も親しい画家たちも健在であった。

戦後、わずか3坪の小さな店で再スタートしてもみんなが応援してくれた。


しかしいまやすべてを失ったうえに、汚点だと言われる。店を借りるにしても、事件を起こした会社に部屋を貸してくれるところはなかった。

二人で銀座中を探し回って、やっと見つけた空き部屋は、エレベーターもなく、階段で上がる雑居ビルの4階の狭い一室であった。 4階の一番奥の日も入らない暗い部屋だ。

商品を置く棚も買えず、床に絵の具を並べて売った。

ななせさんは一日一日が無我夢中で、未来なんて頭の片隅にもなかった。

中学生になった孫の康造さん(ななせさんの息子)も店番に立った。

それから1年にわたって、

兵蔵さんは娘のななせさんと孫の康造さんの魂に、自分の最後のエネルギーの全てを、全身全霊を打ち込んで、月光荘再建のレールを敷いていく。

95歳の兵蔵さんの背中をななせさんが押しながら二人でゆっくり階段を上る。

ある日、将来に対する不安のあまり、ななせさんが思わず 「こんな場所で本当にやっていけるかな・・・」 と口にすると、

兵蔵さんは一言、 「大丈夫、店は場所が作るんじゃない。人が作っていくものだから。」 と言い切って、振り向きもせず、また階段を上がっていった。

兵蔵さんのゆるぎない信念がそこにあった。

こうして1年後、月光荘再建のレールは確立する。

兵蔵さんはこの1年で最後のいのちをすべて燃やし切り、そのレールの確立を見極めると、まもなく人生を終えた。

その後、月光荘は娘ななせさんと孫の康造さんによって見事に再建されていく。


孫の康造さんは、

「逆風のときにこそ人は試されます。祖父は本当に苦しいときの生き様を、何を語るでもなく、その背中で見せてくれました。それは他の何にも代えがたい月光荘の財産として、いまも僕らの心に生き続けています。」

と述べている。

これは娘のななせさんの言葉である。

わたしが父について今になって一番強く感じていること。

それは父の念じる力です。

少しも先の読めなかった私と月光荘の、父亡きあとの30年間を、

とにかくひたすら前を向いて歩ませ続けてくれたのは、

最後の父の強い念力、まっすぐな祈りの力です。

兵蔵さんは、最後のいのちをかけて、大恩ある与謝野晶子先生と画家の先生たちへの最後のご恩報じを成し遂げたのである。