男の愛のかたち


いま、ヤフー、グーグル、インターネットとAIの時代だからこそ、それらを超える本物の愛が求められています。

女性は少女のころから恋愛に慣れ親しんでいますが、男も人間の成長とともにそれぞれの愛のかたちが必要なのではないでしょうか。

本シリーズでは、それぞれの男がそれぞれの境遇や立場において、情熱的に吐露し、表現し、ときには噴出させた「愛のかたち」を、古鳥史康さんの記事から抜粋して掲載して参りたいと思います。

高倉健と田中裕子、映画「夜叉」より


愛の出会いは二人を刃の切っ先に導く。

異質な要素が出会う境界は、刃の切っ先のように鋭く尖っている。

二人が惹かれあうほど、愛は、「これが自分だ」とか「自分らしさだ」と自分で定義している習慣や思い込みを、ときには容赦なく切り裂き、切り捨てていくからだ。

誰かと接して激しい衝動を憶え、痛切さ、感動、愛、激情などに強く心を動かされたなら、それはあなたがこのむき出しの切っ先にいるということである。


おめーは久栄を抱いたと言って騒ぐが、

残念だったな。

久栄を本当の女にしたのはこのおれだ。

おめーじゃねぇ。

おめーが抱いたのは魂の入っていないただの抜け殻よ。

・・・と。

もちろん久栄を本当の女にしたのは、平蔵の芯を貫く男気であり、どこまでも久栄を包み込む平蔵の包容力であり、平蔵の魂からほとばしる久栄への愛情である。

しかし、その平蔵の魂からほとばしる愛情がどのような形となって久栄を抱いて久栄を本当の女にしたかは、平蔵と久栄の二人だけの秘め事である。


このとき、

ジョージのこころの境地が変わった。

自分が破産しようが、逮捕されようが、一生刑務所暮らしであろうが、そんなことはどうでもいい。

元の世界に戻れば、弟は生きかえり、それで母も愛と元気を取り戻し、妻メアリーは愛と子供たちに恵まれ、子どもたちは元気に育ち、叔父も回復し、街のみんなも笑顔に戻るのだ。

自分は一生刑務所暮らしでもいい!

元の世界に戻してくれ!


アラジンは妻シェヘラザードを前にしても記憶が戻ることなく、毎回、物語を聴いた次の日には、呪いの暗示に従って彼女を殺そうとするが、

千夜一夜、じつに3年にもわたって、アラジンとの愛の物語を毎夜くじけることなく語り続ける彼女によって、そのどこまでもたゆまぬ限りなく根気強い不滅の愛によって、

ついにアラジンは呪いを打ち破り、記憶と愛を取り戻したのである。


富弘さんは語る:

私は、それほどの愛に応える術を持っておらず、何も言うことができませんでした。

神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおうと思っています。

風に揺れるペンペン草の実を見ていると、そんな日が本当に来るような気がします。


余談だが、

愛の傷がトラウマとなった男は、それでも愛を求め、求めながらも愛を受け入れることができないから、ドンファンとかプレイボーイとか言われる男になりやすい。

ドンファンとかプレイボーイとかいうとその男の人生は楽しそうだと思われるかもしれないが、本人は苦しく厳しい地獄の荒野を一人でさすらっていたりする。

しかし、そんなろくでもない男にも、

やがて、女の愛は神の愛だ、と知るときが来る。


ワイナリーレストラン・サンクゼールは、フランスの田園を思わせる飯綱町の街並みと田園を一望に見渡す

1975年、サンクゼールの創業者「良三さん」は斑尾高原でペンションを始めました。

2日目のお客さんであった「まゆみさん」と結婚して、忙しく営業していましたが、

ある日、忙しさに疲れたまゆみさんは横浜の実家に帰ってしまいます。

まゆみさんに戻ってきてほしい良三さんは説得しましたが、ペンションをこれ以上続けるなら離婚すると言われてしまいます。

良三さんは決心して、ジャムの製造販売に転身する決意をします。

当時からペンションの朝食で出していたまゆみさんのジャムがおいしくて評判だったからです。


映画「カサブランカ」 ハンフリー・ボガード と イングリット・バーグマン

愛する女性のため、自分が犠牲になろうとする夫のラズロ。そして最後は自分が犠牲になることを選択するリック。カサブランカの二人の男の自己犠牲の愛はあまりにも美しい。西洋では自己と他己を峻別するので、聖書の神の愛は自己犠牲の愛となって描かれることが多いのだ。

しかし、愛は、隣人を守り、愛する人を守るために自らの生命をも惜しまない。だから楽も得もなく、苦も損もない。 カサブランカの二人の男も、何も求めず、だから損も得もなく、自己犠牲ということもなく、ただ愛する女性を情熱をもって命を懸けて愛しぬいた愛一如の神の似姿にも思える。

ラズロの妻イルザの心理は複雑であるが、神の似姿を思わせる二人の男の愛を前にして、その感動に直面したなら、イルザのみならず誰であってもなす術がなかっただろう。


鬼平犯科帳「むかしの男」 中村吉右衛門 と 多岐川裕美

平蔵の妻、久栄(ひさえ)にむかしの男がいた。

久栄は、江戸幕府公儀の火付け盗賊改め方長官・長谷川平蔵の妻である。

と言っても、久栄が生娘で初心だったころに隣家の不良息子に弄ばれて凌辱されたのである。平蔵はそれを承知で久栄を貰い受けたのだ。

ところがそれから二十年経って、この男は喰いっぱぐれて盗賊に成り下がり、二十年前のことを持ち出して久栄を脅しにかかってきた。

すなわち久栄との過去の情事を平蔵に詳細に吹聴して夫婦ともに苦しめようというのだ。また公儀火付け盗賊改め方長官夫人と盗賊との情事が面白おかしく世間に知れれば長谷川平蔵は失脚するだろう。

この局面で長谷川平蔵はどんな愛を見せるのか?


桜島 鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)

西郷隆盛ほど日本人のこころをありのままに体現した人物は、他にいないと思われる。だから私たちが西郷の生きざまとその言葉に遭遇するとき、それらは私たちに愛と生きる力を与えてくれるのだ。

西郷の愛の普遍性は、仏性にも、聖書にも、また私たち一人一人の潜在意識にも共通する普遍性であり、この愛の普遍性こそ、縄文日本人のこころに見いだされる、愛と和の精神ではないでしょうか。

本編はそこに迫りたいと考えるが、さて、この試みは成功するか、失敗するか、いや、じつはそんなことはどうでもよくて、西郷どんに言わせれば、

「これは天の道なのであるから、そこには上手も下手もなく、我が身のことも二の次である。天の道である以上、できないということはない。ただひたすら道を行うのみ」(南洲翁遺訓の二十九)ということになるのである。